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仁摩町と砂時計

『仁摩町と砂時計』

もくじ

仁摩町の巨大砂時計時間観

一年計砂時計の条件

容器の検討

-国際協力

砂時計とピラミッドの砂は鳴り砂

仁摩町の人情と仁摩元年

空間と時間の移動

仁摩町にお邪魔する

集団出勤と集団登校

気分転換

食卓の柿

あたらしい人情にであ

朝方のビールで乾杯

基礎研究の報告会

仁万のお正月

砂時計が終わって得られたもの-母の見送り-

 

[仁摩町の巨大砂時計]

 平成3年元旦、世界一大きな砂時計が砂を落とし始めた。そしてこの砂

時計を納めている仁摩サンドミュージアムが、その年の3月3日にオープ

ンした。

 島根県の西部に位置する仁摩町は、日本でも有数な鳴き砂の浜、琴ケ浜

のある風光明媚で、人口5,600人の静かな町である。山が海岸に迫った景勝

の地で、琴ケ浜は今なお自然の姿を残しており、その砂は、非常に美し

く、砂浜を歩くと砂がクックッと鳴くのである。くすぐったいような感触

が足の裏に伝わってくる。

近くには大山を中心とした鳥取・岡山・島根三県にまたがる大山隠岐国立

公園、また大国主命を主神とし「稲葉の素兎」の神話などで知られる出雲

大社があり、観光の地としても恵まれたところである。このような美しい

自然と暖かい心情が今なおしっかりと存在し続けている。

 この町に1986年にこの大きな砂時計をつくろうという話が生まれ

た。泉道夫町長は、美しい自然の仁摩町琴ケ浜の砂で町の活性化のために

世界一大きな砂時計を・・・と。ところが、一年計のガラス容器、砂はど

うするか、そして何よりもこの計画に町の人の賛同を得ることができるか

など、解決しなければならない数々の問題がった。同志社大学工学部の三

輪茂雄教授が仁摩町馬路で鳴き砂について講演をなさったのがきっかけ

で、この技術的な難問を三輪教授に相談された。「正直言って大変なこと

を引き受けたものだ」と言うのが三輪先生の本音だったそうである。長い

基礎研究の後、砂の精製の研究・開発の話しが持ち込まれたときはわたし

も驚いた。三輪教授を監修とした砂時計大型化のための本格的な研究が始

まった。

[時間観]

 わたし達の人生もさることながら、自然界の新羅万象は生滅変化し、永

久不変なものは何一つない。

「ユク川ノ流レハ絶エズシテ、シカシマタモトノ水ニアラズ」方丈記や

「祇園精舎ノ鐘ノ声、諸行無常ノ響キアリ。娑羅双樹ノ花ノ色、盛者必衰

ノ理ヲアラハス。オゴレル人モ久シカラズ、只春ノ夜ノ夢ノゴトシ。タケ

キ者モ遂ニ滅ビヌ、ヒトヘニ風ノ前ノ塵ニ同ジ」

平家物語などは日本人の時間観の代表的な表現で、無常観をあらわしてい

る。

 砂時計は、考案されたころから形をかえることなく今に続いている。砂

時計のその時間はもとの時間ではない。砂時計は何度繰り返し倒置しても

同じ時間の大きさを与えてくれるが、そのように創られた自分の時間は、

もう、もとの時間ではない。繰り返しているように見える砂時計の時間は

一つの方向をもって流れているのである。不思議な砂時計、砂は同じでし

かも同じ時間の大きさ、同じように思える時間なのに、その時間はもう先

程の時間とまったく異なっている。「砂時計とは、時の流れを教えるもの

だ」と言った小学生がいた。ハッと思った。彼は時間が動的なものである

ということを、砂時計の砂の流れから感じ取ったのである。時間が見え

る、時間の動きというものが砂時計の砂から見えてきたのである。目には

見えない不思議な時間が、自然の砂の動きからその小学生には見えてきたのであろう。砂時計の砂の流れを見た時に、刹那の時間を感じ取ることができる。砂時計はそのような力をもっており、時の流れが刹那の連続であることを教えてくれる。まさしくしくその小学生のことば通りである。

度々「砂時計で今の時間が判りませんね」と質問して来る人がいるが、

「時間」が判らないのではなく、今の「時刻」が判らないのである。時に

は、時間と時刻がある。ある行動の始まりの時刻を知らずして、どうして

今の時刻を砂時計で知ることができるでしょうか。砂時計の砂が半分落ち

た時が、その行為の半分が過ぎた時なのです。砂時計の時間とは、そのよ

うな時間なのです。砂時計は、行為をその大きさで制限しているのです。

時間の形が違う。これは宇宙のすべてのものに当てはまることである。流

れは変えられない。でも、時間が決められていなかったら、また集団行動

がなければ、誰でも時間を自由に決められる。その自由に決められるあな

たの自由な時間を砂時計で創りましょう。

 時間は自分の中にある。時間は、その中で砂時計の砂のように止まるこ

とはなく、しかも二度と繰り返されない。その時間をどう使うか、後悔と

するか、努力とするか、思い出とするか。徒然草の冒頭「つれづれなるま

まに、日暮らし硯に向かひて、...云々」のように過ごすか。「正しい

時間の使い方とは、時間を肌身離さずみにつけていることであり、時間の配分に多大な関心を払うことである」、『時間の発見』(コリン・ウイルソン編、竹内均訳)である。

 

 市販の砂時計の砂はガラスビーズや鉄粉などが用いられている。流れが

非常によい。砂時計にはさらさらとした砂を用いれば小さな孔(オリフィ

ス)でも簡単に通過させることができるように思えた。砂時計は重力とい

う自然の力を利用したものであるから、砂も自然のものを使うことにこだ

わった。ところが自然の砂の表面は普通は滑らかではなく、しかも細かい

粘土質や有機物などが付着しており、流れがよくない。自然の砂は、砂時

計にとってよくない要因ばかりである。当然、粗大粒子や木屑、異物など

の混入が絶対に在ってはいけない。これらの除去には粉体技術の結集が必

要である。さらさらの砂の性質にする条件を研究しなければならない。砂

と砂時計の孔との諸条件の研究もしなければならない。それらの各研究、

開発過程にはだかる問題の解決策を折り込み、三輪教授と幾多の議論・検

討を行なってきた。

「自然の砂1トンを用いて1年間流れ続ける砂時計をつくる」ということ

を基本としたので、砂を小さくし、孔を小さくしなければ、その条件を満

たすことができない。自分たちで苦しい条件を設定してしまったのであ

る。砂を小さくするというのことは、網を使えば簡単にできるが、砂が小

さくなると、それに伴って技術的にいろいろ解決しなければならない問題

点が出てくる。

 砂時計の主旨からすれば、琴ケ浜の砂を使うことが最適ではある。とこ

ろが琴ケ浜の砂は、粒が大きく、これを使って1年計にするには数10トン

の砂が必要となることがわかった。琴ケ浜の砂を入れる砂時計は、あまり

に大きな砂時計になり、現実的ではなく、残念ながら、琴が浜の砂を使う

ことはあきらめざるをえなかった。

 当初は3分や5分などの短い時間の砂時計から始めて、1時間、1日、

10日と次第に大きな砂時計にして行った。すると、今度は大きくなれば

なるほど環境の温度変化の影響を受け始め、それからは時間精度の向上の

ために、温度と時間についての研究が始まった。

そのような研究に、4年余りの歳月を費やしてやっと完成に持ち込んだの

が、暮れも押し迫った1990年12月29日であった。

<もくじ>   

 

 [容器の検討-国際協力-]

  砂時計のイメージに大切なのが容器。一年計の砂時計となると、大容

器もおおきくなり、その製作が問題となる。泉道夫仁摩町長は日本の大手

ガラスメーカーを飛び回ったあげく、日本での製作を断念したという。科

学技術は先進国日本だと思うが、なぜできなかったのか。聞くところによ

ると、日本のメーカーも残念がっていることである。世界の誰もやったこ

とのない、とてつもなく大きな、現実ばなれした砂時計であり、話だけの

計画だと、誰もが信じられなかった結果なのであろうか。企業では冒険と

いう言葉は禁句であるようだが、「研究」という考え方で進んで欲しかっ

た。結局、容器の製作は、西ドイツ・ショット社(マインツ市)が担当し

た。この会社は、有名な光学レンズ、ツアイスなどを作っている従業員一

万人余の工場である。さずがのショット社もこの大きさには驚き、この計

画にすぐには乗って来なかった。「日本人は何を考えているのだ。こんな

もん作って何になる、気は確かか」というわけである。再三の説得、町長

が日本支社のマネージャーと会って実際に進んでいる行動計画書を見て、

やっと本腰を入れて製作に掛かったのである。「よく判った。わが社でも

初めての経験だが、西ドイツ・ショット社の名誉をかけても作る」という

わけである。さすがのドイツ職人もこれだけ大きな、しかも、精緻な砂時

計の曲率の要求には苦労したらしく、満足のいくまで協力してくれた。予

備の容器が今でもミュージアムのフロワーに展示され、みじかにガラスの

大きさを体験することができる。仁摩の砂時計が実現したのも西ドイツ・

ショット社のこうした並々ならぬ協力と惜しみない努力があったからで、

この砂時計の成功は国際的な成果といえよう。

<もくじ>   

 

 [砂時計とピラミッドの砂は鳴り砂]

 仁摩サンドミュージアムは、大小六基のピラミッド型をした三角形のガ

ラスを組み合わせた総ガラス張りの建物からできている。最も大きなピラ

ミッドは、21mもの高さである。建物の中心線は、正しくを向いており、

この方向の決定には、冬の夜空、北極星をさがして行なわれた。なんとロ

マンチックな建築であろうか。このピラミッドの頂点には、同志社大学の

校章がはめ込まれている。実は、それは三角形のガラスの組み合わせから

偶然にも幾何学的に出来上ったのである。ピラミッドを外から見た時に、

まず飛び込んできたのが、母校の記章であった。わたしは、嬉しさがじ

わっと心の中に広がり生じたのを感じた。

 砂時計は、そのピラミッドの中にあり、床から最高位置13.55m(実

測値)の所の大きな空間に設置されている。1ton(正確には1003,3

76g)もの砂をまじかで見ていると、その大きな容器の中心部にある1

ミリ以下の小さな孔から、今にも止まりそうな細い砂の糸の流れを、時間

の経過として感じとれるのが異様である。

「過ぎ去った時間」を形作っている下の容器に作られた砂模様、砂の落ち

ていく上の容器にできる人間蟻地獄。不思議なふたつの「時間」を感じと

ることができる砂時計。少々残念なことは仁摩サンドミュージアムに来た

方々がその砂時計の造形を、まじかに見てもらうことができないことであ

る。しかし、瞬間の砂の流をテレビのモニターで見ることが出きるので、

いまという時間の経過を感じ取ることはできる。

 完成した大きな砂時計は、一般の全国応募の中から「砂暦すなごよみ」

と名付けられ、1991年1月1日、108人の羊年生まれの老若男女の

手によって回転され、仁摩元年の時が砂のように流れ始めたのである。高

さ21mのピラミッド型の総ガラス張りの神秘的な建物「仁摩サンド

ミュージアム」の中で、時間の矢を21世紀に向け、静かに砂を流し続け

ている。

 [仁摩町の人情と仁摩元年]

★★★空間と時間の移動★★★

 わたしの住む神奈川県伊勢原市は丹沢大山国定公園の南東に位置する。

ここから仁摩へのルートは、新幹線、飛行機、バス、車それに寝台列車と

いろいろできが、私は寝台特急夜行列車が好きである。

 新幹線で行くには、私の場合、鶴巻温泉駅から小田急線で小田原へ出

る。ここ小田原は箱根の玄関口で、リュックを背負ったハイキング客でい

つもにぎわっているところである。ここで新幹線に乗り換え、岡山で下

車。ままかり弁当を買って特急やくも号に乗り込みむ。電車は伯備線に入

り出発して20分もするとすぐにゆったりとした川の流れの高梁川に沿っ

て走り始める。備前焼きを産するこの地は、黒瓦の農家の家と緑の山並み

がよくマッチして落ち着いた美しい景色を見せている。伯備線は山間部を

縫って走っているカーブの多いところである。そのために、列車はスピー

ドを落とすことなく走れるL特急である。この振り子電車は、名古屋から

信州の塩尻へ向かう中央西線の列車に最初に採用された方式で、私はその

電車をよく利用していたので、このやくも号の揺れは気にならず、曲がり

の多い伯備線の旅でも問題ではなかった。

3時間の景色を楽しみながら出雲の国に入ると簸川(ヒカワ) 平野(出雲平野)

が斐伊川流域に広がる。斐伊川は八岐大蛇の伝説で有名である。車窓から

斐伊川を見ながら鉄橋を渡り終わると、終点出雲市駅である。この川を渡

ることが、仁摩にくるときのもう一つの楽しみとなった。水の美しさはも

とより、川の流れ模様は素晴しい。車窓から飛び込んでくる砂の造形が、

いつもその姿を変えている。一瞬と思えるほどの短い時間ではあるが、そ

れを見るのが楽しみである。一度は降りて砂遊びをしたいものだと、通る

たびに思う風情のあるところである。その出雲市駅で快速に乗り換え仁万

まで行く。

 つい、楽しさで時間を忘れてしまう。読書、日記などに時間を費やし、

有意義な移動空間であった。

 砂時計が動き出して2年目の1992年初秋に、念願の砂遊びができ

た。斐伊川の鉄橋から見た斐伊川の砂の芸術をまじかに味合うチャンスに

巡り会えた。いつもお世話になっているコンパニオンの一人に上流からこ

の川に沿って案内してもらった。上流は、砂が急激になくなったが、美し

い野の花を知ることができ、砂と違った自然にまた一つ近づくことができ

た。人目に知れることの少ない山間の清流の道筋に、赤紫の花をつけてい

る草花が静かに揺れていた。花の好きな彼女は、これは「ツリフネソウだ

よ」と教えてくれた。なるほど名前の通り船の形をしている。

ツリフネソウの花は、ゆらゆらと車の中で楽しそうに揺れていた。下流に

近くなり美しい河原に車を止めた。靴を河原に脱ぎすててズボンを膝まで

まくって川に入った。川はその程度の深さであった。実際に触れた水は、

車窓から見た水よりきれいであった。素足に伝わる砂の感触は、子供の

頃、父とよく行った砂採りの時の川底の砂の感触を思い出させてくれた。

懐古に浸った初秋の一時を過ごしならが、やさしい姿のツリフネソウと仁

万へ急いだ。

  ★★仁摩町にお邪魔する★★

 砂の精製を終え、ガラス容器の洗浄方法や大きな空間に浮かぶ砂時計へ

の砂投入方法の基礎的な研究結果を用意した 王君と私が砂投入担当者と

して仁摩町通いが始まったのは、稲刈りも終わった1990年の初秋、9

月28日の寝台特急夜行列車、出雲1号を降りた朝からであった。

 JR仁万駅に降りると、田舎特有の雰囲気がわたしの身体を刺激した。

予約していた旅館は、捜すほどもなく、すぐに目に入ってきた。仁万駅前

の古めかしい旅館は、大きなガラスの入った木戸を開けて中に入ると80

歳位のおばあさんが出迎えてくれた。

 ミュージアムの周囲の工事も急ピッチで行なわれており、夕方のテレビ

では、ガラス搬入の様子が報道され、町全体が砂時計ムードになっいた。

 

★★集団出勤と集団登校★★

 我々が仕事で旅館を出るのは、小学生が登校する8時頃で、いつも同じ

所で同じ小学生達と出合った。我々は多い時で11人程、狭い道を長靴ス

タイルで砂博物館に出かけていた。昔ながらの古びた自転車屋さんの70

才位のおじいさんは、薄暗い電灯の下で、もうストーブで暖をとりなが

ら、店の中からわれわれにいつも大きな声で挨拶をしてくださった。われ

われも小学生の集団登校と同じように、つるつる頭にタオル鉢巻をした湯

島天陣の組頭関さんを先頭にして、9人の集団出勤である。その二つのグ

ループが出会うと、子供たちの方から「おはようございます」と大きな声

で挨拶してきたのである。「都会では絶対に考えられない光景だな。都会

ではそなことをしたら逆に先生や親から怒られるわ。知らないおじさんに

は声を掛けたりしてはいけない。変な人がいたら連絡しなさいというくら

いだよね」としゃべりなら仕事場に出掛けた。正直いって驚きであると同

時に仁摩の人柄のいいところだなと感じ、そう思ったことに対して自分が

恥ずかしくなった。それは朝だけではなく帰りの時間でも、子供たちは、

知らない我々に対して「かえりました」と挨拶をしてくる。子供たちに負

けない声で挨拶するようにした。疲れのとれる一瞬である。

★★気分転換★★

 気分転換の為、温泉の宿に変わった。そこは、天然の温泉が涌きでてい

る。のんびりと出来るいままでとはまた違った雰囲気があり、疲れを癒す

には良い宿である。湯は少々ぬるいが、温泉の香りとぬるぬるしたお湯

で、長い間湯船に浸かっていると身体の芯まで暖ったまった。この湯の特

性は、温度30℃、pH=7.6、蒸発残留物1.404mg/l、放射

能成分0.4mg/l、Na+461.8mg/l、Ca++77.57m

g/l、Cl- 458.4mg/l、SO4-- 235.5mg/l。風呂場

への大きな臨時の入口をいっぱいに開放すると、窓から顔を大きく外へ出

さないと空が見えない程に急な岩斜面が迫っていた。この斜面は、手入れ

が行き届いており、きっと建物が完成したら透明のガラスになり湯船につ

かりながらゆったりとした心地で、四季の移り変わりが楽しめるようにな

るのであろう。

 暖ったまった身体で散歩をした。リンリンと流れる細流の音を感じなな

がらの散歩は、夕闇せまる山間の小さな温泉の緑に、そして高い初秋の空

に疲れが吸い込まれていくのを感じさせてくれた。生きているという存在

観が、自然の中に溶け込みながら感じ取れた。

 まだ明るい夕方の湯迫の里をゆっくりと満喫しながら、さらに奥へと

行ってみた。小さな川にはここでとれたと思われる沢蟹が駕籠にいれて

あった。紐を引っ張ってみるとがさごそと沢山の蟹が入っていた。小岩が

ごつごつ出ている細い小道を、十数年ぶりに下駄で歩いた感触は、下駄で

通学していた中学生のころや大学時代田舎の下宿の野道を下駄で散歩して

いたころの生活を想い起こさせた。過ぎ去ったむかしを想いながら湯迫の

山合いを歩いた。しばらくすると一軒の家が見えてきた。電柱もここで終

わっている。というより電灯線が切れているといった雰囲気である。正に

切れているといった表現が適切である。なぜなら、電線は、今まで、何処

までも続いているいるものだと思っていたから、この民家の電柱の先に電

線がないのがわたしには異様に映った。電線の先がその家に引き込まれて

いるならば、おかしくはないのだが、その家への引き込み線もよく判らな

い。中学の理科では、電気は水の流れの例えで教えてもらう。ふとそのこ

とを思い出し、ここでは電線が切れているわけであるから、先端で電気と

いうものが水のように流れこぼれているのではないかと考えたそのおかし

な考えに苦笑した。静かな湯迫の旅館である。

 仕事の帰りに、今も決まってこの湯迫のお湯を利用する人がいた。我々

も何度か一緒の湯船になり、苦しかった生活のために百年ほど前にも百姓

一揆があったことなど仁摩の昔しの様子を聞かせてもらったりした。この

温泉も砂時計ができることによりお客が増えることを願って、部屋の増築

がされていた。

 湯迫温泉は明治、大正と石見銀山の積み出し口の温泉で栄えたという。

石見銀山の資料には、次のように記されている。「石見銀山の始まりは、

壮大なロマンに満ちたドラマで幕が開きます。推古天皇28年(620)

のことです。仙の山(537メートル)の頂上が突然光り輝き、霊妙仏が

中天に姿を現わし、ふもとの人々は、霊光に満たされた山頂の池を、朝日

ケ池、夕日ケ池と呼んだと伝えています。延慶2年(1309)には周坊

の大内広幸が、銀山を発見したといいます。室町時代は戦乱の時代、巨大

な夢をはらんだ石見銀山は、中国路の武将たちの標的となり、激しい戦い

が続くことになる。豊臣秀吉の進出で安定した管理が行なわれるようにな

る。江戸時代、明治時代そして大正時代まで続き、大正12年(192

3)に閉山した。再開発の目処は昭和18年の大水害で完全にその夢が消

えたのである。」その頃から仕事の帰りに疲れを癒したのであろうか。

 われわれの昼食は、19号沿線にある博物館のすぐ前の昔ながらの小さ

な食堂梅の屋をよく利用したが、その食堂の鴨居には、大正のころの銀山

鉱跡の古びた写真が手入れのされることなく掛けてあり、そのころの面影

を偲ぶことができる。写真の片隅に”永久鉱山“と墨で書き記してあっ

た。ここのご主人は、日本各地のこのような鉱山の写真や資料を集めるの

が趣味ということで、勉強会を作って鉱山のことを勉強なさっているとい

うことを、この食堂の奥さんから話しを聞かせてもらった。

  ★★食卓の柿★★

 時節柄、泊り客は我々だけであり、たわわに実った柿が、庭先の仮りの

料理小屋の軒先まで垂れ下がっていた。宿のお手伝いのおばさんにお願い

して、夕食の膳に添えて頂き、採りたての秋柿を味あわせてもらった。四

つ割りにした皮を剥いた柿肌は黒ずんだ茶色しており、口にすると、固い

歯応えと共に、あの柿の甘味が口いっぱいに広がって来た。料理には、せ

せらぎの流れに投げ込まれた篭に入れてあった沢蟹が加わって膳を賑やか

にしてくれた。 仕事を終えて宿で迎えてくれたのは、駅前の旅館のとき

の小学生の挨拶と違って、旅館のおかみさんの心からの笑顔と疲れのとれ

る温泉であった。5日程の短い宿泊であったが、宿を後にする時は奥さん

が道路端まで出て、いつまでも笑み満々で見送って下さった。笑顔はやは

り美しい、忘れえないものである。

★★あたらしい人情にであう★★

 次に来たときの宿は、今度は隣町の民宿にお邪魔することにした。馬路

町は砂博物館から少し離れているために毎日の通いが気になっていたが、

それも民宿の方が気を使って下さり、我々はそれに甘えさせてもらった。

毎日、博物館の前まで送り迎へしてくださったのである。

 帰りは遅くなることが多かったが、電話で連絡させてもらい、わざわざ

博物館したの19号線の脇道まで迎へに来てもらってしまった。

 ここでは、また別の民宿のよさが、われわれの仕事のやりがいをもり立

て、疲れを吹き飛ばしてくれた。食事の時は、おばあさんが膳について御

飯をよそって下さり、町の砂時計に賭けている意気込みなどを聞かせても

らったりした。食膳は、他の宿に劣らず毎日御馳走で、疲れ切った身体に

全ての栄養が吸収されていくような気持ちで食が進んだ。その料理には、

一皿一皿にわれわれに対する励みと砂時計の成功を祈願する気持ちのよう

な温か身が感じ取られて、なおさら美味しさを増してくれた。宿の若主人

の猟友会で狩ってこられた、猪のすき焼きの膳は、最高のもてなしであっ

た。わたしは生まれて初めて猪の料理を頂いたが、牛肉と違って油っ濃さ

が無く、全く臭みというものはない。さっぱりとした料理であった。その

ような夕食が効き、朝の目覚めはいつも気持ちよく迎へられた。

★★朝方のビールで乾杯★★

 仁万でのクリスマスから大晦日までは、徹夜の連続であった。夕食をす

ましてから、また出かけ、帰りは朝方の2時、3時、時には5時という日

もあった。そのような時、冷えたビールがお手製のおつまみを添えて、二

階の階段の上がり切った角に置いてあったりもした。目が半分潰れそう

な、すっかり疲れ切った身体もビールの美味しさで覚め、

今日の成果を語り明日のことを語りながら、心温まる御もてなしを頂戴し

た。さすがに疲れも溜り、おばあさんから声をかけられて、その日は10

時近くに皆が起きたほどであった。暮れも押し迫った30日である。

朝食ともつかない遅い食事をして、ひる近くに博物館にでると、すでに館

内は、それぞれの準備、見知らぬ人達でごった返していた。コンピュータ

を見てもらっている田中軽電工業の田中さんは、最後の調整のためにス

テージに上がりコンピュータに付きっきりで、最後の最後まで頑張って下

さった。田中さんは、チェックを終え大晦日の昼、博物館を後に、車で一

人で帰られた。こちらに来る時は三人で車で飛んできたが、帰りは田中さ

ん一人の運転で申し訳ない気持ちであった。

 

★★基礎研究の報告会★★

 大晦日の砂博物館の周囲には夜店が並び、館内も報道陣、イベント係、

町の関係者が右往左往し始めた。われわれは、万全の準備を終え一度、雨

の中民宿の娘さんの迎えの車で宿に戻り、お寿司の夕食をいただいた。

私は、ゆっくりとお風呂に入った。今までの疲れが身体の全身から抜けて

いくのを感じ、またこの仕事の区切りのような感覚を覚えた。ここまでの

粉体工学と化学工学の領域での基礎研究をすべて終えて、その結集があと

数時間の後に花咲こうとしている。失敗したらどうしようというきもちは

起こってこなかった。考えられることは、与えられた時間内ですべてやっ

てきた。考えられる要因の実験をやってきた。化学工学的なスケールアッ

プの検討もやった。いろんな種類の失敗も数多くやった。頭の中での実験

も何度も失敗した。研究での失敗はいやというほどやってきたので、この

段階では何も心配することはないのである。いや、心配する種がなかった

というのが本当かもしれない。ひょっとしたら”知らぬが仏“とでもいう

ことかも知れない。これからがまた実験だという気持ちであったので、こ

の時点ではすべてが満足であった。

 よくぞここまできたものだと、幼少のころや中学、高校それに大学時代

のことが廻ってきた。粉屋としての基礎研究の成果が今回の砂時計の研究

に大きく貢献したことなどが、瞬時のうちに頭の中を通り過ぎた。そのよ

うなことを湯船に浸かって静かにふけっていると、亡き父と兄のことが想

い出された。汗と一緒に頬を伝った泪は、湯船のお

湯に溶け込んでいった。長いお風呂でぐったりした身体に、いつものよう

に身体に冷水で刺激を与え体を引き締めた。

風呂から上がって冷水に刺激された身体は、今度は、内部から熱を発散し

始めてきた。皆と団欒していると、疲れた身体には睡魔が襲ってきた。そ

れは皆も同じであった。それぞれの床でしばらくの時間横になった。・・・

・。

どれだけの時間が過ぎたのだろうか、忙しく動き回る物音で目が覚めた。

気持ちの準備をし、町が用意してくれた車で、三輪先生達と2キロほど離

れた博物館に出かけた。 いよいよ回転の時間が近まり、それぞれの担当位

置に着く。三輪先生は、回転の綱を引く人混みの角で、くる日がきたと

いった心境で小生らのいる11m上の砂時計を見上げておられた。5分前

から「よいしょ、よいしょ」の掛声で、砂時計はゆっくりと回転し始め

る。基礎実験の結果の発表のクライマックスである。零時の時報が鳴ると

ほとんど同時に、砂は流れ始めた。松明の明かりで浮かび上がったサンド

ミュージアムの外では、花火とレーザー光線で最高に盛り上がり、みなの

拍手と万歳の摩元年がスタートした。

館内では、報道陣のカメラが一斉にフラッシュを焚き、三輪先生と泉道夫

町長を囲みインタビューが始まった。わたしは11メートルの高所の離れ

た所から、先生達の感激を有り有りと感じ取ることができた。この瞬間を

見たときが、小生が最高にホットしたときであった。下におりていき、こ

のためにやって来てくれた大学時代の二人の友人や小生より長い砂時計の

研究をされた生活文化研究所の井上良子さん、砂時計の搬入からいろいろ

と共に仕事をしてくれたコンパニオン嬢達、町の関係者と成功を祝い、感

激に浸った。

印象的だったのは、コンパニオンの目から流れ出ている美しい感涙であっ

た。みんなの祝う中で先生ともに頂いた花束は、私にとって最高のプレゼ

ントとなった。

 ★★仁万のお正月★★

 仁摩元年の祝賀がまだ覚めやらぬ中、新年の午前2時を過ぎたころ町の

準備した車で馬路の民宿に戻ると、すでにテーブル一杯に料理が並んでい

た。ビール、酒、ウイスキーと数々の盛沢山の正月料理のおもてなしを受

けた。新年の祝いと仁摩元年の祝いのこれ程のおめでたい祝いは二度とな

いことであろう。しばらくしてこの砂時計に多大の力となられた松浦助役

が、祝いにおいでになり、盛大なお祝いが、午前4時近くまで続いた。

中国からの王君も慣れぬ日本の正月と連日の徹夜で相当に疲れている様子

で食があまり進まないようであったが、日本での始めての大きな仕事に感

激していた。われわれの仕事の進行には、仁摩の方々、特に小鐵屋、湯

迫、いいのやの宿の方には、目に見えない砂時計への参加が、本当に大き

い力になった。

 母には、正月にテレビで見てもらえることを楽しみにしていたが、湾岸

戦争で1月10日の放映は延期になり、結局番組編成の都合で九州地方も

見れなくなったことは残念でしかたなかった。仙台の80日計をつくった

仙台、妻の実家の山梨も中止になってしまった。

<もくじ>   

 

 

     〔砂時計の設置が終わって得られたもの〕

 

  ★★母の見送り★★

 仁摩一年計が始動し始めた。ここで得られたものはなにか。技術的なこ

とは別として、大切な自然の中の人間として,いや、人として得られたも

のは、仁摩町の人柄のよさであった。町長を始め、丸山氏、コンパニオン

達とそのグループの方々、町の方々には、お世話になりっぱなしであっ

た。みなさんの純粋な心がわたしにはよく見えた。素朴さがいろいろな行

動、態度に滲み出ている。

ミュージアムを出ると、ミュージアムからは、わたし達が帰る後ろ姿が

ミュージアムから3回見え隠れする。一回目は玄関先、2回目はミュージ

アムを降りた階段下、そして3回目はよく注意しないと、わたしのほうか

らは彼女たちを確認しにくい。ガソリンスタンドのところで9号線を横切

り、スナック「摩摩」の角、そこが3回目である。ここに来たとき、何か

の力がわたしを振り返えさせた。すると、まだ彼女たちの白い手袋とハン

カチがミュージアムのガラスの奥から揺れていた。こちらからも、手を

振って合図して最後の別れをした。彼女たちの笑顔はこの距離では当然見

えないが、それを思い浮かべながら仁万駅へ向かった。仁万駅のホームで

も見えるが、もうミュージアムのガラス張りの中の人影を確認するような

距離ではない。向こうからは小さく人影として見えるかもしれない。ホー

ムにいるのは我々王君と二人であるから・・・・。彼女達の最後の最後までの

見送りは嬉しかった。

 わたしの帰省(福岡県大牟田市三池新町)には、必ず父や兄が駅の改札

口で笑顔で迎えてくれたし、郷里を離れる時には、ホームまで入って見

送ってくれた。学生時代の帰省から、そして結婚してからまた子が出来て

からもこのことは一度も欠かされたことはなかった。父はわたしが帰省す

ることを一番の楽しみにしていたことがよくわかった。勤めの時も時間を

もらってでも仕事着姿で迎いにきてくれていたし見送ってくれた。兄も駅

の近くで自分で仕事をしていたので、迎えに来てくれていたし、時間を見

ながら食事を取ったりして出発の時間を過ごしたこともあった。父と兄が

亡くなった後の今では、姉が迎えに出てくれている。そして私がふるさと

を離れる時は、年老いた母が姉と一緒に、毎回、駅のホームまで来て見

送ってくれた。しかしいまはもう母もいない。しかし、わたしの心のなか

にはそして脳裏にははっきりとそれらの光景が焼きついている。

 コンパニオン達の見送りは汽車の窓に手を摺るようにして見送ってくれ

た姿の母を思い出させるものであった。仁万駅前の小鐵屋旅館を朝出る時

に逢う小学生達の元気な挨拶、店の中から声を掛けて下さった自転車屋の

おじいさん、湯迫の温泉気分やその自然に育った蟹料理、秋の味覚を味あ

わせてもらったお手伝いのおばさんと、仁摩の皆さんから人情深い心を与

えてもらった。

また馬路の民宿のおばさん、おじいさん、娘さん達には、大変にお世話に

なってしまった。仕事の度に車で送り迎えをしてもらった。料理もきっと

特別にしていただいたことであろう、普通では到底できないような豪華な

ものばかりであった。夜、遅い時の、階段に用意してあったビール・・・・。

自分達のことのように思ってやって下さっていることがよく伝わってき

た。

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